・エチュードって何のためにやるの?
・どうせ本番では台本使うのにエチュード意味なくない?
こんな疑問がある方に向けてこの記事を書いていきます。
この記事を読むとこんなことがわかります。
・そもそもエチュードとは何か
・エチュードをやる理由
・役作りの段階によってエチュードの意味が変わってくる話(3段階の変化)
どうも俳優をやっているヒロユキと言います。
僕は今年で俳優歴13年目になります。事務所に所属していないこともあり大きい作品には出ていませんが、それでもTVドラマ、映画、舞台、ラジオドラマ(製作、脚本、主演)など色々な媒体に出演してきました。
また、この13年間「演技とは」ということを考え続けてきました。その間にスタニスラフスキーシステム、リーストラスバーグメソッド、マイケルチェーホフテクニークなど様々な海外の演技論も学び身体に落としてきました。
役作りにはいろいろなやり方がありますが、僕はエチュードを基本として作っていきます。
エチュードは自分の現在地がわかる試金石です。
今回は僕がどうやってエチュードを役作りに取り入れているか詳しく説明していきますね。
それではスタート!
そもそもエチュードとは?
そもそもエチュードとはなんでしょう。
デジタル大辞泉の解説によると、
1 美術で、絵画・彫刻制作の準備のための下絵。習作。
2 音楽で、楽器の練習のために作られた楽曲。練習曲。
3 演劇で、即興劇。場面設定だけで、台詞や動作などを役者自身が考えながら行う劇。
. 出典:小学館/デジタル大辞泉
エチュードは即興劇という意味のようです。
特に演劇においては、脚本に書かれているセリフを使わずに、設定だけ頭に入れて演じてみる芝居を指します。
大体は2人以上の複数人で、「それじゃあ実際にやってみよう」と言ってエチュードが始まります。
団体や人によって違いますが、長さはだいたい5分から15分くらいです。
似たような言葉にインプロヴィゼーションとアドリブがあります。
こちらの記事に詳しく三つの違いを書きましたが、基本的には同じ即興劇という意味です。
同じ即興劇ですが、エチュードは日本では特にセリフを用いないで演じる「練習」という意味が強いと感じます。
インプロやアドリブは対外的に見せることがありますが、エチュードを外部の人に見せることはほとんどありません。
やっぱり練習だからですね。
では、この練習をすることによって演技にどういう効果があるのでしょうか。
エチュードをやる理由
エチュードをやる理由をお話しする前に、実はさきほどの大辞泉で書かれている説明に若干の疑問があります。
それがこの部分。
場面設定だけで、台詞や動作などを役者自身が考えながら行う劇。
エチュードでは確かに台本は用意されていませんが、演じてる途中にどうしたら物語が進むのか、どういう動きをするべきなのかを
考えながらは行いません。
エチュードは、日常生活と同じように、その状況と設定の中で気が向くまま動いてしゃべる練習です。
役者は、演じてるときはできるだけ役として舞台上にいたいのです。
逆に、考えながら演じてしまうと、役者の理性が働きます。
「次こういう動きしたらウケるだろうな」
「こんな言葉を発したら物語に変化を与えられるかも」
こんなことを考えてしまっているのなら役に入りきれていません。そういう事を考えるのは役者ではなく演出家・監督の仕事です。
エチュードでセリフを使わない理由も同様です。
セリフがあると、どうしてもそのセリフに縛られてしまいます。特に役作りの初期では、セリフやト書きに縛られるのは絶対NG。
役作りの初期はセリフを入れずに、そして役も入れずに、なんとなくの設定だけがある状態で「あなた自身として」動いてみることが大事です。そうすることで、その作品の世界を自分の感性で自由に生きることができます。つまり、台本の初見のイメージに縛られないで役を作っていくことができるわけです。
最初から色々入れてシーンを成立させようとすると、役のイメージが固定化してしまいます。最初と違う解釈、違う動き、表情、話し方が入れられません。
具体的に言うと、「ここは悲しむところ!」「ここは語気を荒げて怒る!」など全ての動きを決め付けて、それを正しく遂行することに一生懸命になってしまいます。
これだと役が持つ自由さが完全に失われて、ありきたりなつまらない演技になってしまいます。
役に深く潜る為には、「役はどんなことでもする可能性がある」と幅を広く持たせることが肝心です。
そのために、セリフや動きの指定を省いて作品の世界で自由に生活します。
これが「練習」に重点を置いた即興劇エチュードの役割の一つです。
芝居の完成形
さて、それでは自由に演じながら作っていくことで、どんな演技になるでしょうか。
僕が考える芝居の完成形、理想図をお伝えします。
芝居は、
(舞台上やカメラの前で)役として置かれている状況に対する感情が自然に沸き起こってきて、反射的に口をついて出てきてしまった言葉が、たまたまセリフどおりだったと言うのが理想です。
ここまで行くことができれば、セリフに縛られてませんよね。
気分のまま話したら、それがたまたまセリフと一致していただけ。
完全に自然です。
セリフと一致させるためには、もちろんセリフを覚えなければいけませんが、完全に覚えるのは役作りの最後の最後で構いません。
役者はとにかく自分自身を自由にすることが大切です。
セリフにもト書きにも縛られないようにしないといけません。
しかし、人間はやっぱり理性が強いので、すぐにどうした方がいいのか、どうするべきか考えてしまいます。
本当は役としてただそこにいたいのに。
そこで
エチュード!
です。
エチュードによって「〇〇しなきゃ」という理性をとっぱらって、ただそこにいるという感覚を味わうんです。
役と役者自身との感覚のずれは、エチュードの時ではなくその後の自主練で少しずつ埋めていきます。
ですから、大辞泉の考えながら行う劇というのは間違いです。
本来それを取り除くためのものなのです。
さて、ここで問題です。
「シーンを成立させようと思ってセリフや動きをコツコツ練習していく役者」と、
「役自身に近づくために、自分の感性からスタートして、役のキャラクターや気持ちをコツコツ作っていく役者」
この2者を見分ける方法がわかりますか?
答えは、
アドリブで最後まで演じられるかどうかでわかります。
一つ一つのシーンを成立させようと、セリフや動きを練習してきた人は、それ以外のことができません。
アドリブが出てきたとしても一瞬だけです。
かたや、役自身に近づこうと役作りしてきた役者は自由です。セリフにもト書きにも縛られていません。
その役としてその世界の中で、笑うこともおどけることも、語尾を「にゃん♥」にすることでもなんでもできます。
だって僕らは現実世界でなんでもできますよね?
仕事中に、やろうと思いさえすれば語尾を「にゃん♥」にして取引先と話すこともできます。(実際にやったらクビか精神病院行きですがやることはできます)
ただ、セリフや動き、解釈を縛られてしまった俳優は、その設定に放り込まれたときに、語尾をにゃん♥にする発想なんて絶対に浮かびません。
だって脚本にはにゃん♥って書いてないんですもん。
アドリブで演じきれるというのは、一つ一つのシーンの成立だけを目指している俳優には不可能です。シーン一つ一つが上手く演じられていても役として生きてはいない。
かたや、役自身を作ってきた俳優は真に自由です。シーンどころか、物語にもない役の過去を15分演じろと言われても(状況さえ設定してもらえれば)できます。そもそもセリフに頼ってないので何でもできます。
その実際演じるときに使われない部分が、役の背景となって、いわゆる表現に表れてきます。
「こいつ、何かあるな」
と観客に思わせられます。
というか実際なんかあるんですよ。それはシーンではなく、役と向き合ってきたから。
シーン練習だけでは作れない部分です。
さて、話をもどしますね。
自由な演技、型にはまっていない演技をするためにはエチュードから作り上げていくのがいいと思います。
初期段階では、セリフを覚えるのは後回し。
どういう設定でどういう風にそのシーンが進むのかだけざっと理解します。
エチュードをしているうちに本筋と違う方向に進んでいっても全然OK。
無理やり台本通りに戻そうとすると、やっぱり心が動かなくなってしまいます。
ただ本番が近づくにつれて、少しずつセリフや動きも台本に従って作っていく必要があるので、最後まで自由奔放というわけにもいきません。物語として成立しなくなってしまいますからね。
そこで、エチュードは初期・中期・後期と3段階に分けて、意識するポイントを変えていくと効果的です。
僕がやっているエチュードの順番をお伝えします。
本番に向けてのエチュードの順番3段階と本番
1.初期(脚本2回読んだくらいレベル)
設定が頭の中になんとなく入っているくらいの状態で、
キャラクターを入れずに、セリフも入れずに、自分自身で生活してみる。
相手役との関係性を大事に。
お互い役名じゃなくて、役者名でやってみるのがいいかも。
→このエチュードをすることによって、思ったより言葉がきつくなっちゃうな。とか、相手役と距離があるな。とか、○○のときこういう気持ちになりそうだから、自分の過去とのすりあわせを行おうとか見つけていきます。
実際に修正するのはエチュードの時ではなく、その後の自主練でやります。
2.中期(セリフ3~5割覚えたくらいレベル)
セリフを一生懸命覚えようとしなくても、何度も台本を読んでれば少しずつ頭に入ってきます。
その割合が3~5割くらいになったときを役作り中期と判断します。
役として演じる。
セリフは台本どおりでなくても、そのシーンの進む方向が合ってるなら構わない。
個人練習で作った役のキャラクターや、気持ちを実際に演じてみて確かめてみる。
キャラクターにもっと色がつけたほうがいいのかやりすぎなのか感じながらやってみる(ほとんどの場合やりすぎにならない)。
感情を強く出すシーンで出しにくかったら、どんな練習をしたらいいのかなどを見つける。
→今まで作ってきた役の足りないところを見つける期間。まだセリフを完全に入れなくて大丈夫。それより、相手役との関係性、感情、キャラクター。
また、役や物語の解釈もまだまだ変わっていく可能性があります。
今の解釈が完璧な答えだと決めつけすぎないように、ただの一つの可能性にすぎないと思いながら、引き続き他の解釈、可能性を探っていきます。
3.後期(本番1~2週間前)
役として演じる。
セリフはここではもう覚えていたい。多少間違っていてもいいけど、物語の筋からはそれないようにしましょう。
動きが固定されてマンネリ化してくるかもしれません。
今まで作り上げてきたものから外れるのは怖いけど、あえて全く違う解釈で演じて再度自由さを取り戻すのが大事。
マンネリ化しているときは、大体リアルに走りがちです。リアリティを求めるのは大事だけど、マンネリからのリアリティは、自らの動きを小さくまとめてしまってる可能性が高いです。演技から自由さ・いきいきさが消えてしまっているかもしれません。
中期と同じく、役のキャラクター・感情がスムーズに表れるか確かめてみる。
本番に近づくにつれてほぼ100%小さくまとまっていくので、あえて3倍の大きさでやってもう一度壁を壊してみる。
相手役との関係性や、自分の動きの意識の方向が合っているか確認する。(椅子を引くときそんなに丁寧?大事な言葉をかけるとき相手の目を見ながら話す?仮に目を見ないで話してみたらどういう風に感じる?)
→まだ役に足りないところはきっとあります。本番に向けてまとめていくエチュードと、壁を壊すエチュードをどちらもやっていきましょう。
まとめていくエチュードは、上記のように、関係性や意識の方向に違和感が残るようなことになっていないか確かめながらやっていくエチュード。
壁を壊すエチュードは、関係性とかよりも、マンネリを吹き飛ばすために、キャラクターや感情を嘘でもいいので3倍の大きさでやってみるエチュード。こちらは話として成立しなくて構いません。3倍の大きさなので成立しなくて普通です。
ただ、大きく演じるところから自分に足りてない部分のヒントを見つけます。
本番が近いからと、まとめてばっかりいると、結果的に上手くても小さくつまらない演技になってしまいます。
4.本番
今まで作ってきたもの全て忘れて臨む。
本番での心持ちについては別の記事で詳しく話そうと思いますが、キャラクターや感情、セリフに注意が残っている状態で本番をやってしまうと、真に自由な役として舞台上やカメラの前に立つことはできません。
僕ら日常生活では、「自分のキャラクターってどんなんだっけ?」とか「次なんのセリフだっけ?」とか気にしないで生きていますよね。
演技も一緒です。作ってきたものを気にしてなくても自然と役として生きれるところまで作りこみたいです。
そうなってこそ、口をついて出てきた言葉がたまたまセリフだったという事が起きます。
ただ当然そこまでいくのは簡単ではないです。
時期ごとのエチュードのまとめ
初期:セリフや指定された動きを全く気にせず、あなた自身としてうろ覚えの状況下で生活してみる。
⇒ここでは、どういう状況なのか、相手との関係性、自分と役の感性のずれなどを見つける。
中期:セリフは正しくなくても構わない。物語の方向性だけあっていればOK。
⇒ここでは、キャラクターや、感情や、相手との関係性など足りないところを見つけていく。
後期:セリフは間違えてもいいけど、大体は覚えておいてほしい。
⇒マンネリ化している部分を取っていく必要がある。本番に向けてまとめていくエチュードと、壁を壊すエチュードをやっていき、マンネリを壊しつつ、リアリティも求めていく。
本番:いままでやってきたことすべて忘れて演じる。
まとめ
エチュードとは、即興劇のことです。とくに、「練習」という意味合いが強いです。
初期のエチュードでは、セリフを覚えずに与えられた状況下で役者自身として生活してみましょう。
セリフやト書きなどで縛られてしまう事から自由にする練習です。
中期のエチュードでは、自分の足りないところを確認していくための練習です。
自主練で作っていく、感情やキャラクター、相手との関係性、なんかのりにくいところや、思っていたほど強く表すことができないところを見つけていく期間です。
後期のエチュードでは、マンネリの打破と本番に向けてまとめていくための練習です。
マンネリの打破には、3倍の大きさで演じて今までの壁を壊すこと。本番に向けてまとめるのには、向いている意識が正確かどうかを再度確かめていきます。
そして本番では、今までやったことを全て忘れて臨みます。セリフや感情やキャラクターに意識が行ったままだと、結局役者の理性が働いているわけで、役としてそこにいないからです。
・・・とはいえ、完全に理性が働かずに役に没頭というのは、普通の人にはまずできません。
いわゆる憑依型と呼ばれるタイプであれば可能なんですが、僕みたいな普通の人は、努力と練習量でなるべくそういった状態に近づくことが必要になってきます。
憑依型については、こちらの記事にまとめましたのでよかったらご覧ください。
僕のツイッターでは、ブログとは少し違ったテイストで演技や映画のつぶやきをしています。
ブログほど本腰を入れずに、秒速で読めてちょっとタメになるようなことをつぶやいています。
#シドアンドナンシー#ゲイリーオールドマン の出世作になるのかな?
— 俳優で旅人 ヒロユキ (@hir_o_o_o_o_) September 4, 2019
つーか、このキャラクターライゼーション(外的役作り)神でしょ!ここまで本人に似るか?
参考画像選ぶのも、あれ?これ本物?って迷った。
未見の人は、特に最後の方にシド(ゲイリー)が歌うマイウェイを聞いてほしい。#映画 pic.twitter.com/BTbxG2VpVK
演技力の要素の一つに「意識の方向」というのがある。日常生活と同じように、舞台上やカメラ前でも意識を向けることができるか。
— 俳優で旅人 ヒロユキ (@hir_o_o_o_o_) May 21, 2021
上手い俳優は皆できてる。
具体例を上げると、#ゴッドファーザー Ⅰのマイケルがトイレで銃を探してから撃つまでのシーン。
ここは意識がパッパッと入れ替わってる。 pic.twitter.com/OrH1gscvMw
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